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2010年3月

2010年3月31日 (水)

花のいのち

過日・朝のラジオ放送で桜の寿命についての談話放送があった。聞くともなく耳に挟んだ話なので確とは記憶していないが、桜樹の寿命はおおよそ7/80年ぐらいだろうとの事だったように記憶している。例外として樹齢1500年と伝えられる岐阜県根尾谷の淡墨桜や樹齢1000年超と伝えられる福島県の三春桜などの様に手厚い保護を受けて寿命を保持している記念樹もあるが、総じて櫻樹の寿命が7/80年と言うことは合点の行くところだろう。

私宅の前を流れるN川の両岸には100本前後のソメイヨシノの桜並木が続いているが、昭和30年(’55年)此の地に住みついた時にはすでに樹齢10年超と思われる櫻木が植栽されていたのである。当時N川の両岸は現在の様な護岸はなくてなだらかな土手であり春になれば菫・タンポポ・土筆などが顔を出して、周囲には葱畑などが続く田園地帯だったのである。
その後住宅地として開発されるとともに川の両岸は護岸と変わり、桜並木は根を切られ枝を詰められながら樹齢を重ねてきたのである。

以前は川を覆うようにして花のトンネルだった各樹木も枝をきられ古木となり、一部には大きな虚(うろ)さえ生じて痛々しい巨木となり、次々に切り倒されては跡地に若木が補植されてゆく状況であるが、数えてみれば何れもマサシク7/80年の樹齢を重ねて居るのである。放浪記で著名な林芙美子女史が好んで書きとめてある言葉に「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」と言う一節があるが、花を桜とすればマサシク花の命は短くて咲き始めて10日余りが命の限りであろう。根をつめたり枝を切ったりの苦しみは控えて花を愛でたいものである。

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2010年3月27日 (土)

毒ギョーザ事件

一昨年中国からの輸入ギョーザに毒入りの物があり,千葉と兵庫の両県内で中毒を起こした事件は発覚以来「毒物混入は日本で起きた」との理不尽な主張に固執していた中国側に全く誠意が見えず、我が家でもこと食料に関しては、中国からの輸入品は買わないことにして来たのである。こうした中国側の姿勢は信頼を失い大方の日本人家庭から中国産品は締め出されてしまった感があったが、身から出た錆として同情も得られない不幸な状況となっていたのである。

日本政府側の弱腰にも呆れていたが、突然昨日のニュースで容疑者が逮捕されたとの報道を見てホットしたのである。秘密裏に中国側で捜索を続けていたとすれば、何故日本側に経緯の連絡もしてこなかったのか、これまた納得の行かないことだらけである。犯行の動機はじめ理解の行かない点はあるものの、中国側に於ける犯行であることを自ら確認したことは双方にとって合点の行く結末であった。我が国を追い抜いて世界第2位の経済大国となった中国は、それなりの襟度を持して隣人として互いに信じあえる国家と為って欲しいものである。

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2010年3月23日 (火)

春到来・タンポポの花

春の嵐が一過して本格的な春到来の感じです。さくらの蕾も膨らんでボーっと赤く色づいて見えます。

庭の花壇の隅のタンポポが昨日やっと2輪開花しました。このタンポポは近年めっきり少なくなってきた日本古来の‘やまとたんぽぽ’(かってに呼称しています)なのです。此の頃あちこちで見かけるタンポポは殆んどが海外渡来の西洋タンポポなのです。やまとタンポポとの違いは花の下部のガク萼が立っているか開いているかの違いだけのようですが、やまとタンポポの萼は立派にたっているのです。萼が立っているか開いているかだけの違いなど如何でも良いと考えがちですが、やはり子供の頃から馴染んできたタンポポがなくなってゆくとなれば保存したい気持ちになるものです。去年日本伝来のタンポポを見つけたのでその花の綿毛をつまんできて花壇に埋めたものなのです。

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回想の旅・28(伊勢・紀伊勝浦・熊野・白浜)

十年一昔と言うが、一昔より前の’97年11月27日から2泊3日の紀州の旅を思い出した。テレビの・いい旅ゆめ気分・と言う番組で同じようなコースを回っていたので思いだしたのである。旅仲間だったO・K・Mの三夫妻と8人で参加したツアーだったのである。この年は4月のオーストラリア旅行を含めて一年間を通して13回も旅をつづけていて疲れも知らなかったので、今考えればマダマダ若かったことを回想するのである。この旅はどういう訳か旅の記録がなくアルバムにスナップ写真が残されているだけなので不確かな所もありこれまで日記にUPしなかったのである。

当日は早朝の新幹線ひかり号で名古屋経由伊勢神宮を参拝、バスで尾鷲にいたり当日の宿泊先であるホテル忘帰洞の専用船に乗船しホテルに到着・宿泊した。著名なホテルだけあって行き届いたもてなしだったことが食事を撮った写真からでもうかがえた。海とつながっているかに見える露天風呂で旅の汗を流してくつろいだこと等が懐かしく思い出された。

2日目はバスでかなり強行軍な一日を楽しんだとメモされているが、熊野那智大社・那智の滝・青岸渡寺・を参拝したが滝までの階段を上るのは困難なりとしてOさん夫妻は登段を控えて上り口の鳥居の場所で参拝する事に止めたことを思い出した。Oさんは私より7歳年上だったので、当時は79歳だった筈であり自分の79歳だった時とくらべてみたりして一種の安堵を覚えたりしているのである。その後橋杭岩・千畳敷・串本海中公園などを観光して紀伊白浜にいたり・白浜チサンホテルに宿泊した。

3日目は一時雨の曇り日だったが三段壁を観光してから高野山奥院を参拝、数多の戦国武士や著名人たちの墓石を眺めながら参拝を済ませ、PM8:50関西空港発のフライトで帰郷した。当日は低気圧が日本海を北上しつつあり羽田空港も思わぬ混雑にあい着陸できず、数十分の間房総上空を旋回しつつ着陸順番待ちを続けていたので、帰宅できたのは翌日のAM 0:10 の真夜中になっていたことを思い出したのである。何れにしてもかなり強行軍の旅を無事に終了できたのは、今では考えられない 健脚だったからであり、4家族とも櫛の歯が欠けるようにバラバラになってしまったことが悲しまれて為らないのである

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2010年3月21日 (日)

中国の食用油

今朝のY紙に「中国の食用油 1割は廃油」との見出しが目についた。日本でも食用油の廃油を精製して燃料油として再利用しているのは先刻承知しているが、その精製油を食用にしているとは驚きであった。食用油の利用頻度においては日本の日常生活とは比較できないぐらい多用されている中国で、厨房などから捨てられた有害な廃油の精製品によって10%も占められているとは日本では考えられないが、中国ならさもありなんと納得できる所が危険なのである。

流石に管轄当局から使用禁止の通達が出されたようであるが、年間食用油消費量が2250万トンもある中国では、その10%とも為れば200/300万トンにもおよぶ有害油が食卓に上っていたことになり、ひょっとすれば吾々旅行者の口にもはいって居た可能性も排除できないのではないだろうか。再製油には発ガン性の高い物質が含まれている懸念があるのだそうである。

以前使用済みの割箸や爪楊枝が再利用されている実情を知り食生活の安全性に疑問を抱いたことがあるが、今回の再製油は直接食事に関わることであり、見逃すことの出来ない問題であろう。生産コストが安いために業者の利益が高く悪徳ビジネスが蔓延る理由になっているのだそうである。再製油の80%は経済発展の遅れた農村地帯で販売されているらしいが「食の安全」対策の徹底が待たれるところである

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2010年3月14日 (日)

鶯の初音

今朝は風もなく温かな春の日差しがみちあふれています。そんな中に鶯の「ホー・ホケキョ」が聞こえています。何年ぶりかのさえずりです。お隣の白もくれんの木からです。我が家の庭梅は最早散ってしまって花とはいえない眺めなので鶯も見限ったらしいです。

何年か前までは毎年のようにわが庭梅の開花にあわせて鶯の啼き声が楽しめたのですが如何したわけか、ここ数年間鶯の飛来は目にするのですがナキゴエを聞いたことがありません。識者の言によれば番(つがい)で飛来した時には啼かないのだそうです。この日記を記録しているうちに早くもどこかに飛んでいってしまったことは残念であり、今年の聞き初めが聞き納めになるようです。。

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ひまし油

何十年も昔の子供時代の食べすぎ・食あたりなどで具合の悪い時には必ずひまし油を飲まされたことを思い出した。ドロットとした重厚な油でこの上もなく呑み難いしろものだった。現在ほど医学も開発されていなかったので、子供達は度々消化器系統の病魔におかされてひまし油やイチジク浣腸のご厄介になった記憶がある。特にひまし油の飲みにくさは大げさに言えば逃げ回るほどの嫌われものだったのである。

何故思い出したか・と言うと最近オリーブオイルのバージンものを直接飲用するようになったからなのである。半年ぐらい前から持病の腰痛が酷くなって余り遠出も出来なくなり、散歩もシルバーカーのご厄介になりながら30分ぐらい歩くのが精一杯になりはてたのである。身体を余り動かせなくなってから、それまで経験したことの無い便秘に悩まされるようになってしまったのである。多種類のクスリの服用による副作用もあるようで気分のすぐれない日々を送っていたので、薬剤師の娘が心配して便秘に効く漢方薬を服用したりしていたが、純粋オリーブ油の服用をすすめられてから効果的免・気分よく便秘の悩み解消となったのである。

オリーブ油はひまし油と異なり全く飲み難さがなく、朝夕食後に大匙1杯半ぐらいの服用で効果があるので手放せないクスリ(守護神)となっているのである

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2010年3月13日 (土)

引越しにまつわる雑費

鳩山総理が公邸に夫人ともども引っ越しするのに掛った出費について過日テレビでも取り上げて話題になっていたようだが、部分的に耳に入ったのはキッチンのシンクをリニューアルするについての云々とあったので、総理夫人は小柄な方なのでシンクの高さが合わなかったのだナぐらいに聞き流していたのだった。

今朝の新聞紙面の報道では「公邸入居時の改修費694万円」と目に入ってきたので気になって読んでみると内装補修費413万円・清掃費などに281万円の合計694万円であることを知って驚いたのである。前任者の麻生総理が在任中に掛ったものとして914万円をあげていたが、1年ぐらいの短期間の政権の繰り返しで、その都度公邸の改修をするのに多額の支出を繰り返すことは納得出来ない無駄使いではないだろうか。

吾々民間人の場合・会社の転勤に際しては総じて社宅住まいとなるのが一般的であるが、会社側が社宅に手をくわえてくれるのは必要最低限の仕様のみであり100万円にも及ぶ改修などしてもらった経験は知らないのが実情なのである。満足な税収も望めない困窮時に斯程に高額の改修費を繰り返すのは許されることだろうか。食うや食わずの国民が寒空に震えているときに「友愛」を標榜する総理の理想は先ず隗よりはじめて貰いたいものである。

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本態性振戦症

昨夜のNHKテレビ番組「ためしてガッテン」のテーマが「突然襲う手のふるえ」とあったので、気になって見た。マイフレの方々の中にはご存知の方も居られると思うが,マサシク私の右手の振るえがDrの診断によれば本態性振戦症なのである。

6/7年前ぐらいのある日突然右手に振るえが始まって、痛くも痒くもないのに何かしようと思うと振るえるのである。初めのうちはさして不便も感じないので放置していたが、あるときバスの中で向かいの席に座った男性の乗客の両手が、絶えず震えていて見かねて目をそらす状態だったのである。自分もカレのように為るのだろうかと思うと、居た堪れず医者の診断を仰ぐ気になったのだった。

総合病院の神経内科で診断を仰ぐと標題の病名を告げられ、原因は所謂加齢現象なりとのことでクスリも何も処方されなかったのである。その後振るえは酷くなるばかりでまともな字を書くことは勿論趣味の日本画の筆を持つことも適わなくなり困却していたのである。その後担当外のDrの照会を受けてT総合病院の脳神経内科のDrの診断により、改善の様子をみながらクスリの処方を受け服薬をつづけた結果振るえは大分軽減されてきたが、完全に治癒する事は難しいらしいので現状維持でやむを得ないものと諦めている状況である。幸いにしてPCのクリックはできるので専ら手紙の類はPCで失礼しているが、年賀状に一言直筆で書き加えたくても震えて書けないので心の響かない賀状となり失礼しているのが心苦しいのである。

昨夜の放送によれば本態性振戦症患者は全国に140万人ぐらい居るそうであるが、完全な治療法は未だに発見されていないようで皆困却しているらしいので、私も当分我慢の日常を過ごすことになるのだろう。

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2010年3月11日 (木)

アンバランス

大正末期生まれのオールド・シニアともなると日本全国でみても生存者はン十万人ぐらいの筈である。私は子年なので一昨年が年男だったのであるが、当時60数万人との記事を見た記憶があるので現在はもっと少なくなっている筈である。総人口1億2千万人に占める率から見れば微々たるものであろう。所謂後期高齢者の範疇に入る訳であるが、後期高齢者全体で見てもこの年代の生存者は少ない筈である。

このカズ少なくなった老人たちを商売相手として商売が成り立つ筈もなく、デパートの衣料品売り場に展示されている商品のサイズは、どちらの売り場を回ってみても身体に合う商品は見当たらず購買意欲をそがれるものばかりなのである。特に私は腰痛に悩まされるようになってから身長は4/5センチもチジまり、逆にウエストばかりがサイズで言えばLLぐらいに贅肉が付いてしまっていてアンバランスな不恰好スタイルなのである。従って一番困るのがズボン(パンツ)のサイズなのである。胴回りにあわせると股下・股上はともにラージであり裾幅は長い股下を途中で裾口にするので適正な裾はばよりも2/3センチは幅広のズンドウ型となり不恰好この上なしのスタイルと為ってしまうのである。

下着のシャツ類もいまどきの若者は真冬でも半袖で済ますらしく、7分袖のシャツなど何処をさがしても見当たらないのである。購買層の対象になる人間が年ごとに少なくなってゆくのであるから見限られてもやむを得ないのであろう。斯くして後期高齢者向きの衣類は店頭から姿を消してオールドシニアはアンバランスで不恰好な姿をさらして肩をすぼめて今日も生きながらえてゆくのである。

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2010年3月 7日 (日)

見たくない世相

1月末にわが子を虐待の上死に至らしめた鬼のような母親の記事を見て、世に言う「鬼子母神」ではなく「鬼母子神」に為ってしまったのだろうかと嘆いたものであるが、この程またまたわが子に水も食べ物も与えず虐待を続け、ついに飢餓死に至らしめた鬼としか言いようのない両親が奈良県桜井市と埼玉県蕨市とにあったことが報道されていて愕然としたものである。何れのケースも両親が揃って保護責任者遺棄容疑で逮捕されたものであるが、亡くなった子供が生き返るわけでもなくやりきれない気持ちに襲われるばかりである。

両県とも児童相談所に情報が寄せられており、通常の家庭の子育て状況とはあきらかに異なり虐待の匂いが取り巻いていた為、蕨市の場合は一歩踏み込んで強制的に保護する事を検討しながら家庭裁判所に相談の結果、「明確な虐待が認められなければ強制保護は難しい」との見解があったため断念しているとのことだった。相談を受けた家裁の担当者は自ら実態を調査した上で、意見を出すべきではなかったのかが悔やまれるのである。桜井市の場合も’05年以降乳幼児健診に一回も受診しないため、何度か電話催促はしていたそうであるが、何故直接家庭訪問をして実情把握する事をしなかったのかが悔やまれるのである。

かかる鬼としか思われない親の存在する根本的な理由は何なのかを究明する必要を痛感するものであるが、さし当たって児童相談所に実情把握の為の調査権限を与えられるように検討する事を望みたいのである。俗に「世も末なり」と嘆くのであるが、日本国民が節度もモラルもかなぐり捨てて鬼畜にも劣る人種に成り下がってしまったのはどうしてであろうか。人間教育の道を誤ったとしか考えられないのである。

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2010年3月 4日 (木)

見えざる事情

世界中を熱くさせたヴァンクーバー・オリンピックも終了した。参加選手たちの奮闘にも拘らず、笑いあり涙ありの獲得メダルも我が国は銀:3、銅:2の5個に終わったことは残念だった。特に女子フィギュアスケートの浅田真央選手が銀メダル獲得にも拘らず流した悔し涙には、見ている自分もつい誘われて目頭を熱くしたのだった。国民の期待の重荷を背負った彼女にしてみれば、本番で100%力量を発揮できなかったことは残念至極だったことであろう。

これに反し最終日の土壇場で銀メダルを獲得したスピードスケート・女子団体追い抜き(パシュート)競技に出場した穂積雅子・田畑真紀・小平奈緒選手の3名は僅差でドイツ勢に金をゆずり、銀メダルに為ったとはいえ、それまで国民の馬鹿騒ぎもなかったことも幸いして、満面の笑みをうかべて表彰台に立てたのは観客ともどもの喜びであった。

何れの競技においても、参加した選手たちはいずれも吾々の知らないところで,血のにじむような努力を続けてきておることは論を俟たず、また失礼ながら経済的にも苦しい算段を重ねてきているのだろうと推測していた。テレビ報道を見ていて支援者の温かい応援も様々ではあるが、欠かすことの出来ない経済的裏づけとなっていることを知らされた。パシュート競技で銀メダルを獲得した穂積・田畑両選手の勤務する北陸冨山市所在のダイチ(株)は地質測量を業務内容とする社員36名の中小企業とのことであるが、会長・社長を始として社員全員の理解と協力にバックアップされてなしえた練習の成果だったのである。又小平選手は長野県松本市の相沢病院勤務の職員とのことであり、ここでも院長を始として全職員の理解と応援をうけての訓錬あっての銀メダル獲得だったのである。

今回のオリンピックで主催国カナダを初め中国・韓国など多数の金・銀・銅メダルを獲得した各国と我が国との間の政府筋の支援金額の多寡を比較されているが、日本選手団の受けている経済的支援額は如何にも少なすぎるようなので、政府側の再検討を望みたいが、民間に於いても経済的支援を検討する必要があるように思えるのである。獲得メダルのカズを云々する前に政府・民間を問わず普段のバックアップに実のある方策を検討すべきではないだろうか。

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2010年3月 1日 (月)

春蘭

先ほどのテレビ番組・チイ散歩でナビゲーターの地伊さんが築地から新富町界隈を歩くスケジュールで報道されている所を視聴した。戦後の何時頃からか由緒も歴史もある木挽町が東銀座にかわったりの、町名改変があちこちで行われて味気ない殺風景な町名ばかりが目につくようになっていた。そんな中で新富町と言う町名が残されたのは、特別関係があるわけでもないのに一抹の救いであった。現役時代の同僚だった今は亡きT君の生まれてからの何十年かを過ごした町だったのである。

T君は私と同じ齢で横浜支店勤務が長かったが、’73年に私宅を建て直した時には本店配属となり、同じ課所勤務となっていた。穏やかな性格で新富町生まれで当時も新富町の自宅から京橋の本社ビルまで徒歩で通勤していた。思い出せないが実家は何か小さな小売商だったようで、当時地域開発のため自宅土地の買収問題があり悩んでいたようだった。時期をおなじくして私宅の改築と重なりあったので、何もお祝いできないがといいながら自宅の狭い庭先で丹精した春蘭の鉢植えを祝ってくれた。

その後毎年春になると地味な色彩で余り目立たない花を開いててくれたものだった。その後思いもかけず彼が同じ課内勤務のN嬢と社内結婚をした時には、私も当時流行っていた君子蘭の鉢植えを祝いの気持ちをこめて贈ったりしたものだった。最近は手入れも怠り放置していたので我が家の春蘭は細々となり花もつけなくなってしまったが、私が祝った君子蘭はどうなったであろうか。T君が亡くなった現時点では確かめようも無いが、未亡人となった彼女や君子蘭が如何なったかを確かめる術も無いが、新富町と言う町名を聞いて遠い昔となってしまったT君との在りし日を思いだしたのだった。

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